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		<title>聖書Q&amp;A（一般向け）</title>
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			<title>誰に向かって祈るか</title>
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			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 聖書の神は三位一体の神であると信じていますが、誰に向かって祈ったらいいのか混乱しています。私の場合は、90％はイエス様に呼びかけて祈っています。ある集会に出た時に、「お父様、イエス様、聖霊様」と祈っている人がいたので、驚いたことがあります。私の混乱を解いてください。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; 三位一体のどのお方に祈っても、必ずしも間違いとは言えません。三位格はすべて神であり、そこには上下関係はないからです。と同時に、聖書が教える祈りのパターンは、「父なる神」への祈りであることも認識する必要があります。旧約聖書でも新約聖書でも、記録されているのは「父なる神」に呼びかける祈りです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1） 唯一の例外は、ステパノの言葉です。彼は石打の刑に会いながら、こう叫んでいます。「&amp;lt;strong&amp;gt;主イエスよ、私の霊をお受け下さい&amp;lt;/strong&amp;gt;」（使7：59）。この聖句を根拠に、イエスに呼びかける祈りは聖書的だと説明する人がいます。しかし、その説明には無理があります。なぜなら、ステパノの言葉は、祈りというよりは、自分が見たイエスの幻への応答だからです。彼は、「&amp;lt;strong&amp;gt;見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます&amp;lt;/strong&amp;gt;」（使7：56）と言っています。つまり彼は、主イエスの幻を目撃し、それに応答しているのです。これは、天使を見た人が、天使に向かって自分の願いを伝えるのと似ています。その人は天使に向かって祈っているのではなく、自分が見た幻に応答しているだけです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2） 聖霊に向かって祈る例は、聖書にはありません。御霊は私たちを父なる神に向かわせ、父なる神に祈る言葉を与えてくださいます。パウロは、「&amp;lt;strong&amp;gt;私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます&amp;lt;/strong&amp;gt;」と書いています（ロマ8：15）。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3） 主イエスが大祭司であることを根拠に、イエスに向かって呼びかける祈りを正当化しようとする人がいます。主イエスが私たちの大祭司として執りなしをしておられることは、事実です。だからと言って、それがイエスに向かって祈ることの根拠になるわけではありません。旧約時代には、アロンとその子孫たちが大祭司として立てられました。では、イスラエルの民は大祭司に向かって祈ったのでしょうか。そんなことはありません。大祭司は神と民の間に立つ仲介者ですが、イスラエルの民はその大祭司に向かってではなく、神に向かって祈ったのです。新約時代の私たちは、「主イエスの御名によって」祈ることを勧められています。これは、御子の権威によって祈るということであり、呼びかける対象はあくまでも父なる神です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（4） 聖書的祈りのパターンは、「父なる神に向かって、御子イエスを通して、聖霊によって祈る」ということです。このことを認識し、祈りの力を体験しようではありませんか。祈りは賛美、礼拝、そして神との対話です。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Thu, 17 May 2012 17:27:17 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>聖書観について</title>
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			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 同じ聖書でも、人によって読み方や受け取り方が違うように思います。それはどうしてですか。どこに原因があるのでしょうか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; 人によって読み方や受け取り方が違うのは、各人の聖書に対する姿勢が異なるからです。これを難しい言葉で「聖書観」と言います。相手の聖書観を理解すると、聖書について対話する際に、相手の発言内容がよく分かるようになります。簡単ですが、以下に6種類の聖書観を紹介します。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1）合理主義的聖書観。この中には、無神論、不可知論、理神論（宇宙存在の根源としての神の存在は認めるが、その神が人類の歴史に介入するとは認めない）、などが含まれます。合理主義の共通した特徴は、聖書よりも人間の理性を上に置くことです。その結果生まれてくるのが、近代主義や自由主義神学などです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2）神秘主義的聖書観。神秘主義の特徴は、聖書よりも経験を上に置くことです。彼らは、経験に合致するものは真理であり、そうでないないものは真理ではない、と主張します。また、聖書は神のことばではあるが、それ以外にも霊的真理はあると考えます。そのような霊的真理は、神秘的体験によって与えられるというのが彼らの主張です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3）ローマカトリックの聖書観。彼らは、聖書は教会の作品であると主張します。また、聖書はあいまいに書かれているので、最終的な権威である教会が、聖書の意味を明らかにする必要があるとも言います。彼らは、伝統に重きを置きます。ヘブル語・ギリシア語の本文よりも、ブルガーター訳（ラテン語）を重視するのもその表れです。また、使徒ペテロが初代の法王であり、法王権がカトリック教会の中で継承されてきたと信じています。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（4）新正統主義の聖書観。この聖書観は、実存主義哲学の影響を受けています。彼らは、聖書は神のことば（メシア）を証しするものであるが、過ちも含んでいると主張します。また、聖書の中から「神のことば」を見つけ出すことが人間の役割であり、そのためには、「神との出会い」が必要であるとも言います。聖書よりも、「神との出会い」体験を上に置くのが彼らの立場です。ただし、どれが「神のことば」であるかについて意見の一致がないのが問題です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（5）カルトの聖書観。この聖書観では、聖書以外に何か別の聖典が重要とされます。つまり、聖書の霊感を認めると同時に、別の聖典の霊感も認めるということです。モルモン教ではモルモン経が、クリスチャン・サイエンスではメリー・ベーカー・エディ（1812～1910）著『科学と健康──付聖書の鍵』が、聖典とされます。聖書よりも、別の聖典を上に置くのが彼らの聖書観です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（6）正統主義的聖書観&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;上記5つの聖書観に共通しているのは、聖書以上に権威あるものが別にあると考えていることです。正統主義は、このような考え方を否定し、聖書に最高の権威を認めます。これこそが聖書的立場です。以下の3点が正統主義の非常に重要な告白内容です。①聖書は、誤りなき神のことばである。②聖書の原典は、霊感を受けて書かれており、なんの誤りも含まない。③聖書は、信仰と生活に関する唯一で最終的な権威である。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;正統主義的聖書観に立つ人は、幸いです。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 14:29:55 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>恵みと律法</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/grace-and-law/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; ある先生が次のようにお話されていました。「恵みを強調し過ぎると、クリスチャンは安逸をむさぼるようになって何もしなくなる。だから律法が必要」と。恵みを強調することは、本当に人を不従順へと導くのでしょうか。この点について、どのように考えればよいか、お教えください。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; パウロは、神の恵みを強調した使徒ですが、彼の教えは「放縦につながる」という理由で、多くの人たちから批判されました。キリストにある自由をはきちがえて放縦に走る考え方を、「無律法主義」と言います。もちろん、このような批判は、パウロの教えを誤解した結果出てくるものです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;パウロは、ロマ書12：1でこう教えています。「&amp;lt;strong&amp;gt;そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です&amp;lt;/strong&amp;gt;」。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1）パウロの勧告の土台は、「神のあわれみ」、つまり、「神の恵み」です。パウロは、ロマ書1～11章で「神の恵み」について論じてきました。それが勧告の土台になっているのです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2）勧告の内容は、「全的献身」です。つまり、自分の全存在を捧げることです。旧約時代の供え物は、死んだ動物でしたが、新約時代の供え物は、他の命を犠牲にしない、自発的な供え物です。神様が評価される献身とは、律法に強制されてする行為ではなく、自発的な献身です。それこそが、霊的な礼拝であり、当然なすべき礼拝です。これは、神の恵みに対する愛の応答です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3）パウロは自分のことを、「キリスト･イエスのしもべ」と呼びましたが、これは逆説的言葉です。なぜなら、彼は「しもべ（奴隷）」でありながら、自由を味わっていたからです。私たちもまた、「キリスト･イエスのしもべ」としての道を歩むように召されています。私たちは、罪の奴隷状態から解放され、自由の身となりました。その結果、自らの選択によって「キリストのしもべ」となったのです。これは、自発的奴隷としての生活です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;結論を言いますと、恵みを強調することこそ、真の「キリストのしもべ」を育てる唯一の道です。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Sat, 31 Mar 2012 14:29:55 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>礼拝の意味</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/whats-worship/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 聖書研究の席で、ある人がこういう感想を述べました。「神様はなぜ、そんなにほめられたがっているのかな。俺なんか、ほめられたいとは思わないけど」。この男性はクリスチャンです。何かおかしいと思うのですが、どう答えたらいいのか分かりません。助言をお願いします。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; この男性の疑問は、礼拝の意味を理解していないことから来るものです。そこで、「なぜ礼拝が重要なのか」について考えてみましょう。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;神は創造主であり、私たちは被造物です。人間は創造の冠として、神の「かたち」に似せて造られました。創造主と被造物の関係は、メーカー（製造会社）と製品の関係に似ています。ガソリン車の仕様で製造された車は、ガソリンで走ります。そこにサラダオイルや原油などを入れると、エンジンが破壊されます。人間もそれと同じです。車に燃料が必要なように、人間も生きるためのエネルギーを必要としています。つまり、人は何かに満たされなければ動かない、ということです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;そう言うと、無神論者からは、「自分は神を信じていないし、なにものにも依存していない。自力で生きている」という反論が返って来そうです。しかし、その反論は正確ではありません。どんな人にも、その人を動かしている動機というものがあります。富、名誉、快楽、アルコール、あるいは、人間の手で作った神々などが、それです。一番大切にしているものが、その人にとっては「神」になっているのです。聖書は、真の神以外のものを第一にしていることを、偶像礼拝と呼びます。麻薬中毒は、偶像礼拝の極致です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;アダム以来、人類は真の神に背を向け、偶像に依存する道を歩み続けています。そのため、エンジン（人間性）が破壊されているのです。それを元通りに回復するためには、純粋な燃料が必要です。真の神を礼拝することこそ、その燃料を受け取る方法です。私たちが礼拝してもしなくても、神は神です。むしろ礼拝は、私たちの人間性を回復するために不可欠なものなのです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;話は変わりますが、私は5年ほど前からゴルフを始めました。コースに出る機会はさほど多くはありませんが、練習が比較的好きで、週に一度は打ちっぱなしに行くことにしています。しかし、なかなか上達しません。5年間の練習で、恐らく何万個かのボールを打ったと思いますが、納得できる玉、これがゴルフのスイングだと思える球を打ったことが、まだ一度もありません。今は、「その一発」を楽しみに練習しています。さて、私はクリスチャンになって40年以上になります。これまでに何度礼拝を捧げてきたことでしょうか。しかし、いまだに、「その一発」と思えるような礼拝を捧げた記憶がありません。そのような礼拝は、恐らく天においてのみ可能になるものなのでしょう。真の神を礼拝することが人間性の回復の方法であるとするなら、完ぺきな礼拝を捧げることは、救いの完成を意味します。地上の礼拝は、「その一発」の先取りであり、それに向けての予行演習です。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 14:29:55 +0900</pubDate>
			
			
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		<item>
			<title>聖書の読み方</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/how-to-read-the-bible/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 友人に聖書に興味を持っている人がいます。彼が、「どこから読み始めるのがいいか」と質問してきました。聖書は膨大な書です。どう答えればいいですか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; 読み始める前に、聖書全体が何を伝えようとしているかを考えてみましょう。聖書は究極的には、①神とはどういうお方か、②その神に近づくためにはどうしたらよいのか、という2点を示しています。それを念頭に置いて、聖書を開いてみましょう。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;一般的な助言としては、4つある福音書のどれかから読み始めるのがいいでしょう。福音書は、キリスト（メシア、救い主）について証言しています。非ユダヤ人が最初に読む書としては、マルコの福音書がお勧めです。この福音書では、キリストの行動がよく分かります。その次にお勧めなのが、ヨハネの福音書です。これを読むと、キリストの教えと、ご人格がよく分かります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;以上が一般的な助言ですが、もし状況が許されるなら、創世記を導き手とともに読むという選択肢もあります。これには相当な時間がかかると思いますが、効果は絶大です。なぜなら、創世記には、それ以降展開されるすべてのテーマの萌芽があるからです。人類の創造、堕落、メシア到来の約束、イスラエル民族の選びなどなど、内容が実に豊富です。実際のところ、旧約聖書の知識なくして新約聖書を深く理解することは不可能です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;短時間で神との関係を認識するためには、詩篇139篇がいいと思います。この詩篇では、次の4点を学ぶことができます。①全能の神の存在を認識する。②そこから逃げようとするが、偏在の神に出会う。③さらに、創造主なるお方に出会う。④最後に、神への信頼へと導かれる。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;どこを開くかということと同様に、聖書に向かう姿勢も重要です。（1）1コリ2：13～14は、聖霊により頼むことの重要性を教えています。&amp;lt;strong&amp;gt;「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」&amp;lt;/strong&amp;gt;。さらに、1ペテ2：2は、熱心に求めることの重要性を教えています。&amp;lt;strong&amp;gt;「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」&amp;lt;/strong&amp;gt;&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Thu, 19 Jan 2012 14:29:55 +0900</pubDate>
			
			
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		<item>
			<title>聖書には誤りは含まれていないのですか</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/inspiration-of-the-bible/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; クリスチャンの友人が、「聖書は霊感を受けて書かれている」と言っていましたが、それはどういう意味ですか。聖書には誤りは含まれていないのですか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; 最近は、「霊感」というと「霊感商法」が連想されますので、この言葉には否定的な印象が付きまといます。しかし、これは本来あってはならないことです。「霊感」を正しく理解することは、聖書に取り組む姿勢を正すことにつながります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;先ず、「啓示」という言葉から見てみましょう。神は人類に語っておられます。これを「啓示」といいます。啓示には、一般啓示と特別啓示があります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1） 一般啓示とは、自然を通した啓示や歴史を通した啓示です。さらに、人間の内面（良心）を通した啓示もあります。これらの一般啓示には、限界があります。一般啓示は、救いの道を示してはいません。また人間には、一般啓示によって示された真理を歪めてしまう性質があります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2） 特別啓示とは、神からの直接的な語りかけのことです。受肉（神が人となられたこと）は、特別啓示の中の特別啓示です。イエスを見た者は、父を見たのです（ヨハ14：1～9）。さらに、書かれたことば（聖書）による啓示があります。これによって、一般啓示を正しく理解することができます。今日の私たちにとって、これが最も重要な啓示です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;神のことばである聖書に誤りはありません。それを保証するのが、「霊感」という概念です。天理教や大本教では、教祖が神のお告げを書き記した文書を「御筆先」といいます。その場合、記者は神の啓示を書き記す道具になっているわけです。これは、聖書が教える「霊感」とは異なります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;霊感を示す聖句として最も重要なのは、次のものです。&amp;lt;strong&amp;gt;「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」&amp;lt;/strong&amp;gt;（2テモ3：16～17）。「神の霊感による」と訳されている言葉は、ギリシア語で「セオプニューストス」です。「神の息が吹き込まれている」という意味です。この言葉は、書かれた結果が間違いのないものであることを保証しているのであって、それ以上でも、それ以下でもありません。霊感に関しては、以下の点を理解しておきましょう。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1）聖書には、二重著者という概念があります。神が第一次的な著者であり、人が第二次的な著者です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2）神は、著者の特徴、経験、文学形式などを用いて御心を啓示されました。それゆえ、聖書には多様性と統一性があります。それが「御筆先」と根本的に異なる点です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3）誤った霊感説がいくつかあります。「機械的（口述筆記的）霊感説」では、神は著者の執筆活動を完全に支配し導いた、とされます。「概念の霊感説」では、概念は霊感を受けているが、すべての言葉が霊感されているわけではない、とされます。この説は、神の霊感の度合いを引き下げる考え方です。「部分的霊感説」では、聖書の各部分には霊感を受けている度合いの差がある、とされます。もしそうなら、人間が最終的な判断を下すことになり、問題が起こります。以上の3つの説は、すべて間違っています。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;最後に、「霊感」を受けて書かれたのは、原典だけであることを覚えましょう。つまり、「原典において、聖書は誤りなき神のことばである」ということです。では、私たちが読む翻訳された聖書には、権威はないのでしょういか。そんなことはありません。今、原典が保存されているわけではありませんが、何千という写本群の研究により、原典の内容が99％以上回復されています。そこから種々の言語への翻訳がなされています。翻訳文は霊感を受けているわけではありませんが、原典の内容を現代人に理解できるように別の言語に置き換えているので、そこには権威があります。翻訳上の過ちがあったとしても、それは実に微々たるものです。また学者たちは、原典の意味を正確に伝えるように、常に翻訳の改善に取り組んでいます。私たちとしては、安心して手元にある聖書を権威あるものとして読めばよいのです。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Mon, 19 Dec 2011 14:29:55 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>聖書の成り立ちについて</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/how-the-bible-came-to-be/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 友人の勧めもあって、聖書を読み始めようと思っています。その前に、聖書がいつ、どのようにして今のような形になったのかを、知りたいです。よろしくお願いします。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; これは、非常に重要な質問です。ご質問の内容は、専門的には「正典（Canon）問題」と呼ばれています。つまり、霊感を受けて書かれた書はどれか、どこまでが聖書に含まれるべきか、という問題です。これについては、カトリックとプロテスタントの理解は異なります。カトリックは、いわゆる「外典（アポクリファ）」も正典の中に含めます。その理由は、七十人訳聖書（ヘブル語聖書のギリシア語訳、前3～1世紀）に外典が含まれていたからです。それに対して、プロテスタントは、旧約聖書39巻、新改訳27巻、計66巻のみを正典と認めています。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;旧約聖書の正典化の過程は、新約聖書ほど難しいものではありませんでした。①前4世紀ごろには、ユダヤ人の間では、今の39巻が正典として認識されるようになっていました。ちなみに、現存する最古の写本は、前1世紀前後に書かれた死海写本です。②イエス・キリストもまた、当時のユダヤ人たちの判断を認定されました。「&amp;lt;strong&amp;gt;わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです&amp;lt;/strong&amp;gt;」（マタ5：17）。③どの書が外典であるかに関しては、紀元250年頃には、ほぼ意見の一致が見られました。外典の理解に関しては、今も若干の論争はありますが、通常は、外典は普通の歴史的な文書であるとされます。つまり、正典ではないが、当時の状況に光を当てる歴史的情報としての価値はあるということです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;新約聖書の正典化は、旧約聖書の場合よりも複雑です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1） 初期の信者たちの認識を見てみましょう。①ペテロはパウロの手紙に権威を認めています（2ペテ3：15～16）。②パウロの手紙は、諸教会に回覧されていました（コロ4：16、1テサ5：27など）。その権威が認められていた証拠です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2） 次に、教会教父たちの認識を見てみましょう。①ヒッポリュトス（Hippolytus）（紀元170～235年）は、22巻を、霊感を受けた書として認識していました。②正典に含めるべきかどうかで論争のあった5巻は、次のものです。ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第二、ヨハネの手紙第二と第三。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3） その後、ヒッポ会議（393年）、カルタゴ会議（397年）によって、現在の27巻が新約聖書の正典として認定されます。認定の規準は、以下のようなものです。①著者は、使徒か、使徒と関係の深かった人か。②教会全体から受け入れられているか。③正統的な教理や教えと矛盾しないか。④聖霊による霊感を感じさせる霊的、倫理的価値を含んでいるか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（4） ここで注意すべきは、正典の範囲を教会会議で決定したということではないという点です。そうではなくて、信者たちがすでに正典として認識していたものを、教会会議で正式に確認しただけのことです。正典化の過程に神の守りと導きがあったことは明らかです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;いつの時代にも、神の権威を認めない者はいます。不信者の声に耳を傾けるのではなく、正典化の過程で働いた神の守りと導きを認め、安心して聖書を開いてください。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Thu, 17 Nov 2011 15:06:57 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>地蔵が置かれている場所がありますが、そこには悪霊がいるのでしょうか</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/Resist-the-devil/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q &amp;lt;/span&amp;gt;私の家の近くに、地蔵が置かれている場所がありますが、そこには悪霊がいるのでしょうか。また、クリスチャンは、神社仏閣に近づかない方がよいのでしょうか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A &amp;lt;/span&amp;gt;私は大阪出身ですが、子どもの頃、街角にいくつもの地蔵が置かれていたことを覚えています。地蔵盆になると、お菓子がもらえるので、楽しみにしていました。もちろん、クリスチャンになってからは、それが間違いであることが分かりました。地蔵は、正式には地蔵菩薩と言います。一般的には「子どもの守り神」と認識されており、親しみを込めて「お地蔵さん」と呼ばれたりします。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;さて、その地蔵に悪霊が宿っているかどうかですが、答えは「否」です。偶像は石や木や金属などでできた「物」です。聖書には、悪霊が「物」に宿るという教えはありません。そう考えるのは、アニミズム（自然のすべてに精霊が宿っているとする原始宗教）の世界観の影響です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;聖書に悪霊が登場する時は、生きているもの（人間や動物）に憑いているか、単独で存在しているかのいずれかです。この点で参考になるのが、1コリ8：4です。&amp;lt;strong&amp;gt;「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています&amp;lt;/strong&amp;gt;」。ここでパウロは、偶像には実態がないのだから、市場に出回っている肉に関しては、偶像に捧げられた肉かどうかを詮索しないで食べてよい、と教えています。しかしパウロは、偶像の宮で、偶像礼拝の一環として肉を食するなら、それは悪霊と交わることだとも言います。「&amp;lt;strong&amp;gt;いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」&amp;lt;/strong&amp;gt;（1コリ10：20）。以上の2つの聖句から、①偶像そのものを恐れる必要はない、②しかし、偶像礼拝に係るなら、それは悪霊との関係につながる、ということが分かります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;占いや魔術の本などについても、そこに悪霊が宿ることはありません。しかし、そこには邪悪な情報が書かれており、悪霊がそれを用いて人を誘惑する危険性はあります。信者になったなら、そのような邪悪な本を捨てるのが得策であることは言うまでもありません。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;神社仏閣に近づくことに関しては、両極端を排除するのがいいと思います。つまり、不必要に近づくことも、過度に恐れることも戒めるということです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;キリストにある者（信者）は、霊的に目をさましている必要があります。「&amp;lt;strong&amp;gt;身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」&amp;lt;/strong&amp;gt;（1ペテ5：8）。しかし、悪霊を過度に恐れる必要はありません。神に従って生きることこそ、重要なことです。主イエスの弟のヤコブは、&amp;lt;strong&amp;gt;「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」&amp;lt;/strong&amp;gt;（4：7）と教えています。使徒ヨハネも、私たちに励ましの言葉を送ってくれています。&amp;lt;strong&amp;gt;「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」&amp;lt;/strong&amp;gt;（1ヨハ4：4）&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;最後に、パウロの次の言葉に注目しましょう。&amp;lt;strong&amp;gt;「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」&amp;lt;/strong&amp;gt;（2テモ2：8）。私たちが心を留めるべきは死者の中からよみがえったイエス・キリストです。もしキリスト以上に悪霊に関心が向いているとしたら、それは霊的に不健康な状態です。&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Thu, 22 Sep 2011 11:08:20 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>そもそも、「救われる」とはどういうことですか。</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/how-to-be-saved/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/span&amp;gt; 長年求道生活を送っていますが、どうすれば救われるのか、よく分かりません。そもそも、「救われる」とはどういうことですか。クリスチャンの友人たちに聞いても、あいまいな答えしか返ってきません。教えてください。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;span class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/span&amp;gt; 大切な質問をしてくださり、感謝します。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（1） この質問をされること自体が、すでに救いを受ける準備ができていると考えられます。自己充足している人（自分は善人だと思い込んでいる人）からは、この質問は出て来ません。自分は今のままではいけない、救われる必要がある。無意識的でもいいのですが、そのように感じていることが、救いを受ける背景、あるいは文脈になります。そういう人が聖書を読み始めると、より鮮明に自分の欠点や罪を認識するようになります。これは辛い経験ですが、救いに至るプロセスとしては素晴らしいことです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（2） 先月も書きましたが、「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。聖書を読むと、神の義と聖の規準が、いかに高いものであるかが分かります。それが分かると、自分の行いによって救いを得ようとすることが、いかに愚かなことであるかが分かります。伝道メッセージの中で、私はよく「この中で泳げる方は手を上げてください」とお聞きします。すると、勢いよく手を上げる方が何人もおられます。「どれくらい泳げますか」と聞くと、たいていは100か200メートルです。まれに何キロでも泳げるという猛者もいます。また、10メートルくらいで手を上げる前向きな方もおられます。そこで私はこう言います。「泳げますかと聞いたのは、日本の太平洋岸からアメリカの西海岸まで泳げますかという意味でした。そういう方は手を上げてください」。すると、爆笑が起こります。神の基準は、太平洋を横断するかのような壮大なものです。それに対して、私たちの規準は岸辺で水と戯れるようなものです。神と私たちの間に、超えることのできない淵が横たわっています。これが分かると、一方的に赦していただかないと、自力ではどうすることもできないことが分かります。一方的な赦しを「恵み」と言います。ゴスペルソングの「アメイジンググレイス」は、そういう神の「恵み」を体験した人の感謝の歌です。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（3） 「福音」とは、「良い知らせ」、「グッドニュース」のことです。福音は、人間が考えたものではなく、神が啓示してくださったものです。いわば「made in heaven」なのです。そのため、人間的な思索の延長線上でしか物事を考えられない人には、難解です。しかし、純真な心（これを幼子のような心という）で福音に耳を傾けるなら、これほど単純で、愛に満ちたメッセージはありません。「神様は、ひとり子イエスを犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる」というのが、福音の神髄です。この福音に応答する方法は、信仰しかありません。つまり、「アーメン（その通り）」とうなずくしかないということです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;（4） 福音には3要素があります。どれひとつ落としても、福音ではなくなります。&amp;lt;strong&amp;gt;「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、…」&amp;lt;/strong&amp;gt;（1コリ15：3～4）。①イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれた。②死んで墓に葬られた。③そして、3日目に死者の中から復活された。この3要素を受け入れ、イエス・キリストをそのようなお方として信頼する、つまり、「イエス・キリストは今も生きていて、私を救うことができる」と信じることです。これが、恵みにより、信仰によって救われるということです。これ以外に、罪人である私たちが救われる方法はありません。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt; &amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;神の愛を受け取る決心のできた方は、こう祈ってください。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;「天の父なる神さま。私は罪人でした。私の罪はあなたの恵みによってしか解決されません。私は、イエス・キリストが私の罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、3日目に復活されたことを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Tue, 30 Aug 2011 12:06:26 +0900</pubDate>
			
			
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			<title>キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。</title>
			<link>http://www2.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/what-is-salvation/</link>
			<description>&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;em class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;Q&amp;lt;/em&amp;gt; 友人の誘いで教会に行ってみたのですが、「あなたは救われていますか」と言われ、ちょっと戸惑いました。失礼な感じもしました。キリスト教で言う「救い」とはどういうことですか。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;&amp;lt;em class=&amp;quot;initialcap&amp;quot;&amp;gt;A&amp;lt;/em&amp;gt; そうでしたか。私も学生時代に教会に行き始めたころ、「中川さん、あなたは救われていますか」と言われて、反発を覚えたことを思い出しました。まるで魚が網で「すくわれる」かのような印象があり、これは注意しないといけないなと思ったりしました。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;「あなたは救われていますか」と言われて戸惑う理由は、自分は救われる必要があるとは思っていないからではないでしょうか。「救われる」という言葉を物理的な意味で捉えれば、とりあえず健康で、経済的にも困っていなければ、自力で生きていけるわけですから、救いの必要性は感じないわけです。しかし、重病の人、危険な状態に置かれている人、苦しみの中にいる人は、そこから解放されたいと願っていますので、救いの必要性を切実に感じています。自信満々で生きている人でも、致命的な災害や悲劇に直面すると、たちまち人間の弱さを実感させられることになります。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;ところで、冒頭の質問では、より根源的な意味で「救われる」という言葉を使っています。つまり、魂の救いに係る質問だということです。私は大学時代に教会に通い始めましたが、その理由は、人生に不安を感じていたからです。人は死んだらどうなるのか、その先に命はあるのか、罪に対する裁きはあるのか、天国や地獄はあるのか、などなど、頭の中には「根源的な問い」が一杯ありました。物理的には救いの必要性をさほど感じてはいませんでしたが、精神的には確固たる何かを求めていたのです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;聖書は、以上の2つの意味での「救い」について語っていますが、より頻繁に出てくるのは、後者の「根源的救い、永遠の救い、魂の救い」の方です。その場合の「救われる」とは、「神の怒り」から解放されることです。聖書を読まなくても、私たち人間の心には罪責感というものがあります。私たちは、裁きに対する本能的な恐れを持っています。箴言28章1節に「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」とあります。実に興味深い言葉です。①悪者は、本能的な恐れを感じて、いつも精神的には逃げ回っています。②それに対して、正しい人は若獅子のように力に満ちています。この「正しい人」を「救われた人」と考えれば、この聖句の意味はよく理解できます。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;神は義なるお方ですから、罪をそのまま放置することはされません。もっと言うと、聖であり義である神は、罪に対して怒っておられるのです。愛の神は怒らないと考えているなら、それは大きな誤解です。罪や悪に対する怒りは、愛という性質の一部です。「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。罪のゆえに、神と私たちの間には深い淵ができています。罪は私たちに、「神との分離」と「死」をもたらしました。「&amp;lt;strong&amp;gt;罪から来る報酬は死です&amp;lt;/strong&amp;gt;」（ロマ6：23）とある通りです。その私たちのために、神は救いの道を用意されました。「&amp;lt;strong&amp;gt;ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです&amp;lt;/strong&amp;gt;」（ロマ5：9）。この聖句から分かるのは、①私たちはキリストの血によって義と認められるということ、つまり、キリストが私たちの罪のために死んでくださったので、私たちの罪が赦されるということです。②さらに、義と認められるとは、神の怒りから救われるということです。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;次に湧いてくる疑問は、救いを受けるためにはどうすればいいのか、というものです。この点に関しては、いつか詳細に説明したいと思いますが、今回は要点だけを述べておきます。私たちは「信仰」によって救われます。①福音を聞き、それを理解する必要があります。福音の内容は、イエス・キリストが自分の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目に復活されたということです。②次に、それに同意する必要があります。③最後に、それを事実として受け入れ、そのようなお方としてイエス・キリストに信頼を置く必要があります。これが信仰による救いです。これ以外に、罪人が救われる方法はありません。&amp;lt;/p&amp;gt;<br />&amp;lt;p&amp;gt;私は大学3年生のときに、イエス・キリストを救い主として信じました。これは私の人生で最大、かつ最高の決断でした。時が経過するにつれて、その決断がいかに素晴らしいものであったかを実感するようになっています。「あなたは救われていますか」と問われて、「はい」と答えることのできる人は幸いです。あなたもぜひ、そうなってください。（&amp;lt;a href=&amp;quot;http://www2.harvesttime.tv/[sitetree_link id=125]&amp;quot;&amp;gt;月刊紙&amp;lt;/a&amp;gt;8月号より）&amp;lt;/p&amp;gt;</description>
			<pubDate>Fri, 12 Aug 2011 12:00:00 +0900</pubDate>
			
			
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